軋轢にみちた融和に向かって
初出:堀越一希《西深井の左官》(architecturephoto、2020年)
https://architecturephoto.net/95073/
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いまどきフィルムで写真を撮っている僕にとっては、現像したネガを自宅のスキャナーでとりこんで色味を調整し、スキャン時にフィルム表面に付着したホコリや傷をPhotoshopの「スポット修復ブラシツール」を使って取り除く、というところまでが「写真を撮る」という作業である。Photoshop CS5(2010)が画期的だったのは、この修復ブラシツールに「コンテンツに応じる」という機能が追加されたことだった。なにしろ、ソフトウェアに実装された人工知能(Adobe Sensei)が写真の内容を解析し、不要な要素を判別し、それを自動的に消してくれるのだから。ところがやっかいなことに、《西深井の左官》ではこのレタッチツールがうまく機能しなかった。人工知能がこの建物の仕上げを染みか何かと勘違いしているのか、修復ブラシツールをぽちっとやると、スキャン時に付着したゴミのみならず、仕上げのムラまでもがならされてしまって、壁や天井のテクスチュアはなめらかな平面へと見事に「修復」されてしまうのである。
興味深いのはこのテクスチュアが、創業百年を超える料亭の別館を改修するという与件のなかで成立しているということである。設計者=施工者によれば、この不均質な色や質感の背後にあるのはクラックを防止するための構法上の要請である。塗り重ねの際、層ごとに素材の色や含水量を変え(下層が黄色、中層が白、上層がクリーム色)、色差によって厚みを視覚化しながら塗り・掻き落しを進め、塗りの薄い部分を一定の間隔で布置することで歪みに追従する柔軟な仕上げをつくっている、と。なるほど、たしかに収縮時に歪みが大きくなるであろう床に近い部分では黄色い斑点が多く出現している。いうなれば、湿式工法にもかかわらず“目地”があるような状況。
この仕上げの正当性を担保しているのは、市場で決定された材料の価格ではないし、生産や加工に費やされた時間(労働量)でもない。かといって趣味性に依拠しているわけでもないし、様式化された仕上げが採用されているわけでもない。裏づけているのはただひとつ、これが建物を長持ちさせるための工夫であるということだ。その一点において、「よごれ」がこの場所に存在することが許されている。これは建物が人間に対して比較的長く存在するものだということに端を発しているから、建築特有のロジックだと思う。しかし、経験する側がそうした構築的な合理性を瞬時に理解することはとても難しいことだから、けっきょくは根拠や価値がよくわからない謎のテクスチュアとして──すなわちよごれや染みとして──人々はこの物質の全面的突出と向き合うことになるだろう。この部屋に長い時間身をおいていると、場所場所での質感の違いや壁の歪みが次第に見えてくる。いろいろなかたちをした斑たちや、それらが光を受けて浮かびあがる陰影らと、僕らは素朴に出会う。理解はつねに、自分の目や肌を通して、遅れてやってくる。これも、とても建築的なことだと僕は思う。
長持ちさせるための諸々の工夫は、素材の価値を振り出しに戻し、むしろ見えないところへと沈殿させ、それによって人間と、人間的な構築の身振りとを直面させる。そしてそれは、既存の歴史ある土地と立派の建物のなかに、貧しさと高級さ、古さと新しさといった複数の相容れなさが同居する「例外的な場」を出現させる。建主がここで実現しようとしている世界と、それを可能にするための設計者=施工者のこうした倫理的な態度は、壁や天井だけではなく、《西深井の左官》の細部の隅々にまで行き渡っている。