引き受け、踏みとどまること──鯨井勇『プーライエ』を訪ねて

初出:建築ジャーナル 2022年10月号


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鯨井勇さんが自邸の自助建設を武蔵野狭山丘陵で開始するのは、1972年の大学卒業前後のこと。竣工は1973年。鯨井さんは、東京郊外に新しく造成されたひな壇状の住宅地の角地に、さまざまな場所の建物(福生の米軍キャンプ、千葉の古い蔵、近所の農家……)の古材を妻の佳子さんと一緒にもち込み、それらを再利用して、この家をこしらえた。[1]

ひとつひとつ異なる質感やかたちをもつ部材によって構築されたプーライエの空間体験は強烈だ。例えば階段。玄関扉をあけると、造成時にあらかじめセットされていた大谷石の外部階段がまず見えてくる。ただの動線だったこの外部階段は、踏面・蹴込が黒ペンキで塗り込められ、その真上を木造の小屋が覆うことによって、完全に建築内部へと取り込まれている。外構としては標準的な大きさだったこの階段は、家に取り込まれた瞬間に、おおぶりな階段、という認知を我々にもたらす。階段には本棚が設えられ、この広々とした感じもあいまって、段差に座って本を読むことのできる書斎のような場所としてこの前室が再構成されていることがわかる。段差に座ると見えるのは、上階からはしごを下ってアクセスすることのできる、コックピットのような仕事部屋だ。既存の外構を内部化するこの配置によって、最小限の部材と労力で地下に魅力的な部屋をふたつ増やしている。とても合理的だ。この元外部階段にはより急な勾配の木製のササラが食い込み、上階へのアクセスを可能としている。上がると、眺望が急激にひらける。さらに上へと登る2階への階段はさきほどよりも急だが、これは古い蔵の階段を使ったもの、ということだった。それぞれ蹴上が異なるので、階段の来歴の違いははっきりとした感覚の差異として身体に伝えられる。同時に、梁や柱、扉のテクスチュアも、よく観察するとひとつひとつ異なっている。部分がもっているこうした個別具体性によって、非常に小さい家なのだけれど、世界があちらこちらへと展開していき、全体像がつかめないような感覚を覚える。

都市住宅1974年5月臨時増刊住宅第6集、4頁より

しかし、とはいえ、この家を古材によるセルフビルドということだけで片付けてしまうのは片手落ちだ。というのも、鯨井さんがこの土地と出会ってから、実際に測量をし、卒業論文を提出して古材を調達しはじめるまで、1年ほどの期間が空くからだ。プーライエは基本設計に長い時間がかけられたプロジェクトなのである。土地を注意深く観察しながら建築を構想する十分な期間があり、そのあいだに、古材の調達・使用とはまた別のレイヤーで様々な問題が吟味されていたはずだ。

それはなんだろうか? 手がかりはふたつ。まず、常識的ではない配置計画。201.39㎡という敷地面積に対して、建築面積は27.4㎡。実に174㎡も余っていることになるのだから、普通は敷地の中央あたりに余裕をもって建物を配置しそうなものだが、プーライエは敷地の端部にボリュームをおもいきり寄せ、敷地境界線ギリギリに建物が凝縮したような配置を採っている。結果として、建物の向こう側に、面的な広がりをもった空地が最大限余る。ほんらい住宅が建つべき場所は空白のまま、ひとまず基礎が打たれることもなく、露出した土のまま残される。これがプーライエの配置がもっている重要な帰結である(もちろん上述したように、既存外部階段を内部化して最小限の資材で最大限の場所の豊かさを確保するという狙いや、基礎の打設を最小限に留めるという意図もあったと思われる)。余った土地は、鯨井さんたちが引き受けた様々な資材がいったん置かれるヤードになったり、作業場になったり、作物を育てる農場になったりする。つまり、きわめて生産的な場として活用される。この配置計画を鑑みると、基本設計の段階から自給自足的な生活のイメージがあったのではないかと思われる。

配置とともに重要なのは外形だ。まるで擁壁の法面を反転させたように、南北の外壁は上部にいくほど広がっている(加えて、屋根勾配は既存の外部階段の勾配をトレースしているように見える)。東面には出窓。この「せりだし」や「とびだし」には、この小さな住宅を都市的な環境との関係のなかで構築しようという鯨井さんの意志が現れているように思われる。東には八国山、東山道、その向こうには、東京都心部のビル群。西には、遠くに富士山が見える。擁壁に食らいつくように建て、眺望の起点を道路側へずらすことによって、この家は驚くほどの視界の開けを獲得している。それはこの家が宅地開発された造成地に建っていることにも起因している。開発によって作られた道があり、人工的に分割された宅地があり、敷地境界線からセットバックするように配置された典型的な家が立ち並んでいる。そうした均質さが周囲にあるからこそ、建ち方の工夫によって、シークエンスに格段の変化がもたらされるのである。さて、その一方で、西側の外壁は垂直にスパッと切断されたような、あっけない表情をしている。何かが欠如しているような外観、といってもいい。この西側の立面は、いずれこの面に増築をおこなうという一種の宣言であり(実際、竣工から12年後の1985年には増築される)、プーライエの時間的な変化がすでにこの立面の決定に埋め込まれていると言えるだろう。

特筆すべき点は、配置にしろ、外形にしろ、意図的な切断や空白が計画段階で実装されていることだ。竣工時にすべてを完成させてしまうのではなく、建設プロセスのある部分を未来に対して投げ出すような設計者の身ぶり。ここで目論まれているのは、短期間の建設で建物を完成させ、減価償却資産となった住宅のローンを払い続ける……という近代的な郊外の住居モデルとはまったく異なる建設・生活のシステムである。古材による建設、敷地のかどにヴォリュームを凝縮した配置、未来の増築を見越した切断的外形、余った土地が育む食料生産と資材のストック。これらすべてが、生きる場を運営するための新たなシステムの構築に向けて考案・決定されたものであり、一貫している。

加えて、自らの手で作るという非常に小さなスケールの問題と、周辺環境の歴史や軸線にアプローチするという巨視的なスケールの問題が中間項なしにドッキングされていることが、プーライエの空間体験の特異な点だ。建築家にありがちな概念的な操作(それは所員や施主といった不特定多数との意思決定を前提とする場合重要なわけだが)はすっぽりと抜け落ち、手で触れられる部分の具体的なことと、目に映る部分の具体的なことが、非常に高い解像度で考察されている。だからこそ、急な階段を登ったり、柱を手で触れたり、窓を覗いたりする身体的な行為が、歴史や地理といった抽象的な事象と直接的に結びつくのである。それは、鯨井さんが長年追求されているお茶を点てるという行為──味わうという行為が、歴史に触れるということに常に直結している──ともどこか似ている。

『都市住宅』誌の第25号(1970年5月)の特集は「都市住宅展01 あなたにとってマイホームとは何か」であり、「都市住宅展」に出展された全作品が掲載されていた。「都市住宅展」は、1969年、すなわち鯨井さんが学部2年生のときに『都市住宅』が主催した住宅設計コンペで、主催者のひとりであった磯崎新による挑発的な応募要項「きみの母を犯し、父を刺せ」が提示された。問われたのは、「定住すること」の是非である。鯨井さんは本展に出展すべきか相当に悩んだ結果、出さないという決断をしたということだった。安易に紙面で解答することができないくらいに、鯨井さんにとって重大なテーマだったということだろう。1970年、奥様の佳子さんと新宿ピットインで出会い、これが転機となって、卒業論文でプーライエの建設を宣言する。

同世代の多くの建築学生が件のコンペに応募したのではないだろうか。そして歴史に対する徹底した拒絶を前提とし、せっせと理論武装をしながら、フィクショナルな提案を提出したのではないだろうか。そんななかで、鯨井さんは自らの手で大地と交渉し、定住する家を構築することを早々に決めてしまった。この決断が、当時の建築界の状況に対するある種の憤懣(ふんまん)なのだとすれば、そこからプーライエへと引き継がれ、なだれ込み、現在まで引き継がれた問いの、少なくともその大枠の根拠を、私たちは確保することができるだろう。

もうすこし、時代の雰囲気を確かめてみよう。1968年、鯨井勇さんが大学に入学した年はまさに、「学生紛争」という前代未聞の出来事による、地政学的な危機のまっただなかだった。当時学生だった鯨井さんもまた、こうした状況の雰囲気におおいに影響を受けていたことは想像に難くない。しかし、1972年にはあさま山荘事件が起こる。60年代末期の叛乱のひとつの帰結として、極左過激派の退廃がここで露呈するわけだ。1973年の増沢洵設計の新宿風月堂(新宿区、1954年)の閉店も、感度の高い若者にとっては重大な事件だったかもしれない。けっきょくのところ、ラディカルな活動や言明は、机上の空論に過ぎないか、あるいは、いつの間にか去っていくものだった。こうした状況で鯨井さんは、土地にとどまること、状況を引き受けること、諦めずにやり通すことを、自身のプロジェクトにおけるテーマとして選ぶわけである。多くのラディカリストたちは、実空間での実装可能な「出口」を見出すことができなかった。鯨井さんが選んだ道は、安易に大地からの脱出を夢想するのでなく、変動する社会的・政治的・経済的状況のただなかで、いかに自らの領土をかたちづくるか、ということだった。プーライエというプロジェクトの背景には、おそらくこうした問題意識があったのではないかと思う。

さらに、建築という、ひとりですべてつくることのできない分野における自助的な建設(「手づくり」であること)がもつひとつの可能性は、思いがけない仲間との協働(cooperation)が発生するという点である。手づくりであれば当然、その協働関係のなかに、必ずしも建設分野とかかわりのない専門性を携えた仲間が参入してもよい。結城座の劇団員とともにつくりあげた吉祥寺の『くぐつ草』に代表されるように、鯨井さんの仕事はまさに、こうした協働関係の再編という重大な問題を抱えていたように思われる。ここでは階層的・搾取的な関係や単一の原作者性にもとづくのではなく、分化した専門知識の共有をもたらすような、建築の新たな制度的定義を必然的に巻き込むはずだ。

建築とは何か? 人間を囲うものだ。

人間は建築をつくることで、環境に対するある距離を制作し、場所を定義する。そして人間は、自らがどういう場所に生きているのかを、建築を通して確認し、ときに組み替えもする。

プーライエは、ごくごく一般的な手と足と土地との関係のなかで、仲間とともに、都市そのものをつくり替えてしまうような局所的な視点を自助的に構築するプロジェクトだ。それは、世界をめぐる「信」を、自らの生の土台とするプロジェクトでもあった。

私たちにできることは非常に限られているが、だからといって、その限界をそのまま受け入れるわけではない。それと同時に私たちは、あるがままの現実を引き受け、そこに踏みとどまることを諦めてもいけないのだ。

1 現在のプーライエの様子に関しては、以下の藤森さんの記事が詳しい。

https://jp.toto.com/pages/knowledge/useful/tototsushin/2022_summer/modernhouse/

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