アナーキズムの条件 ──中平卓馬の〈パースペクティヴィズム〉

未発表(2019年)

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1 アナーキストは建築家になり得るか?

例えばアナーキストの建築家、世界の根底からの転倒をもくろむ建築家などというものがはたして存在しうるものなのであるか否か。極論すれば、革命家と建築家とはそもそも形式論理からいっても敵対矛盾の関係にあるのではないか。(……)近代の建築の論理に反抗し、なおかつ建築家として作品を創り続ける、そのような建築家はいないものなのだろうか。(……)だが無念にも都市、建築の破壊は一手早く権力の側から行われているというのが現状である。すでに建設業者と建築解体業者とは手を結んで「列島改造」を進めている。権力の側からの都市の破壊、それに対するわれわれの側からの都市の解体・破壊はいかなる形態をとるべきなのか。そしてその時、建築家に何ができるか?それが今日の危機的状況を危機的に生きぬこうと決意した建築家に問われるたったひとつの問いなのではないだろうか。(……)だが、しかもなお建築家であることをひきうけつつ真の解放(むろんそれはあらゆる意味を含んでいる)を目指す者は、今一体、何を考えているのだろうか?

中平卓馬「アナーキストは建築家になり得るか?」(1974年)[1]

1974年、中平卓馬は自身が表紙を担当していた『近代建築』誌上でいささか挑発的なテキストを寄稿する(Fig.1)。64年の東京五輪から70年の大阪万博にむけて加速していた高度経済成長が公害問題やオイル・ショックにより一時頓挫し、70年安保改定を前にした全共闘運動がすでに息をひそめていた時期であり、同時に、大規模なスクラップ・アンド・ビルドによる都市空間の変貌の只中にあった時期のことである。中平が投げかけたのは、世界の普遍性・不動性に対する建築家のオプティミスティックな態度への批判であり、「アナーキストは建築家になり得るか?」という疑義であった。

Fig.1 『近代建築』1974年1月〜12月号

その確信に満ちた口調の背景にあったのは「今をときめく黒川紀章の一冊の薄っぺらな本」で彼が感じた、建築家の、世界は無限に安定をかさねてゆくであろうといった歴史観、あるいはバラ色の未来を描くその世界観への、“ほとんど生理的な反ぱつ”であったという。岡崎乾二郎が指摘しているように、黒川をはじめとした戦後のメタボリストたちの計画で実装されたのは、中心となる主体の座(コア=インフラとなる主要部分)を永続させるため周辺の消耗的な部分を交替させるという仕組みであった[2]。つまるところそれは基幹構造(政府であり交通網でありインフラ設備であり、なにより当時未来のエネルギー源として期待されていた原子力発電所である)をむしろ強化するシステムであり、近代的な政治権力をより一層増長させるものにほかならず、中平の指摘する通り、このときまさに建築家はアナーキストとは正反対の立場にあった。

上記の中平の疑義はあくまで〈建築〉に向けられたものだが、しかしこれは同時に自己批判でもあった。このテキストからおおよそ2年前の1972年、中平は『プロヴォーク』の総括を以下のように綴っている。

われわれの戦線は明白に二つの領域にわたっている。第一に権力による具体的な政治的な情報操作の領域、第二に、それこそがエンツェンスベルガーのいう「意識産業」の主要なホーム・グラウンドであるが、われわれの日常に深く浸透する日々の意識と感性の操作と収奪、その二つにいかに具体的な反撃を加えてゆくか、それがわれわれの二つの戦線である。だがむろんのことこの二つはともに「人間と人間の関係」に根ざすものである以上、必然的に政治的な戦いにならざるを得ないだろう。

中平卓馬「記録という幻影」(1973年)[3]

マス・メディアのなかで仕事をするしかないということを引き受けながらも、ただそれをいたずらに非難するのではなく、具体的かつ現実的な実践を通して批判していくこと。中平自身は「図鑑」というコンセプトで、「まず第一に〈関係〉であり、人間と事物と空間との〈媒介項〉」 [4] である都市を解きほぐし、開いていくための写真の視覚的実践のモデルを提示した。「アナーキストは建築家になり得るか?」(以下「アナーキスト」)で建築家が問いただされたこともまた、建築家であることを引き受けた先に、「真の解放」にむけた具体的な実践形式がありうるのかどうか、ということである。しかし中平による〈建築〉への疑義は閑却され、すくなくとも公の場では返答されることがないまま、40年余りが経ってしまった。

中平の実践は往々にして1977年9月の記憶喪失の病をさかいに分別される。しかしそうではない。いささか伝説化してしまっている記憶喪失の前後の中平の実践はむしろ驚くほど連続しているのであり、同時に、中平の後期の写真作品はまさに上記の「第二の戦線」(日常に浸透する日々の意識と感性の操作)に差し向けられたものなのである。

茫漠とした日常性においてこそ情報社会におけるマス・メディアが果たす真に政治的な役割があるように私には思える。マス・メディアはわれわれの日常性を制度化し、そのことによってわれわれの感性を制度化し、統御する。

同書[5]


この一点に、建築的な実践が「生の解放」のためになすべき政治的闘争と、中平の写真実践が重なる地平を見つけ出すことができるのではないか。本稿が企図するのは、私たちの生を枠付けている制度への違反・冒険・逸脱の形式を、中平自身の言説及び制作物から取り出すことで、「アナーキスト的建築家」という中平が提示した建築家像をより明確にすることだ。

2 制度化された空間に抗して

2-1 挑発(provoke)から日常性批判へ

「個人的主体の自律性」と「社会の際限なき発展」という近代のふたつの信仰は、「理性主義」という概念において重なり合う。世界の有り様にはすべて必然的な根拠があり、あらゆる真理は理性によって論証される必要があるという理性主義は近代に特徴的な啓蒙的思想である。非論理的な因習の脱却を目指した「理性」は近代的な主体の第一の行動基準であり、近代人はそれを賭け金とすることで、「個人の自由」あるいは「主体の自律性」の実現可能性を得た。しかし同時にそれは、「生産性」に応じて最大の利益を得るプロセスを約束する枠組みでもあり、社会の資本による合理的な支配とその滑らかな運用の基盤となる概念であった。

この「個人の自律」の功罪こそが追求されるべき大きな問題だったのであり、だからこそ「理性」は資本制に対抗する政治的・文化的・社会的闘争の場となる主要なサブジェクトだった。左翼運動の画期となったのは1968年5月、「学生紛争」という前代未聞の出来事による地政学的な危機である。中平もまた「熱い」運動に見を投じたひとりであった。しかし、武力を用いた左翼運動の激化とその悲惨な結果を受け、国民は急激に脱政治化していくことになる。その後出現するのはコルネリュウス・カストリアディスが「順応主義」と定義したもの、すなわち政治的な問題の理解の拒否・無関心という姿勢である[6]。資本主義的な合理性に対する体系的な批判が息を潜め、代議制民主主義が消極的に受容され、「多元論」と「差異の尊重」に重きを置かれるようになった時代。まさに我々が生きてきているこの時代だ。

近代社会が目指した自律性、それは個人の主体性を約束するものであった一方で、コインの裏側にはあったのは、政治的主体を生産-流通-消費の網の目に絡みとることで資本の支配下におくという生権力(=人々の生に働きかけ介入しようとする近代産業社会の権力構造)である。中平が初期の「アレ・ブレ・ボケ」を用いた写真制作で目指したのは、こうした高度に発展した資本制における循環-流通-消費の不可視のシステムを「切断」することであった。しかし先に示したように、その後の中平の制作は「第二の戦線」(日常に浸透する日々の意識と感性の操作)へと、つまり、写真というメディアがもつ生権力への直接的な攻撃というよりは、むしろ日常に根ざした内在的な批判に移行していく。

はっきり言ってしまうならば、状況をひきうけて〈私〉は初めて成りたつのであり、エンツェスベルガーが一笑に付すように、隠れ家としての〈私〉などはない。それはブルジョイ・イデオロギーがふりまいた幻影としての個=ワタクシであるにすぎない。(……)なぜいまさら〈私〉をことさらに言いたてる必要があるのか。反対に〈私〉を世界に向かって開き、〈世界〉に対して事物に対してできうるかぎり「受容的」であることがいまこそ必要とされているのではないか。(……)われわれは毎日毎日をひとつの意味の体系としての〈遠近法〉にしたがって生きている。この〈遠近法〉はわれわれの行為と経験、身振りと習慣、こういったものがより合わさってでき上がったものである。

中平卓馬「まち──見ることの遠近法」(1976年)[7]

エンツェスベルガーが『意識産業』でしめしたのはまさに、情報産業が裏打ちする権力構造のなかでは自律的な個というのは存在せず、ずたずたに引き裂かれているという現実であった。近代が目指した個の自律性が生み出したのは、世界の有り様をあらかじめ規定する〈遠近法=パースペクティヴ〉であり、事物や経験、習慣の布置は措定された「架空の消失点」によって統御される。中平が求めていたのは、写真というメディウムがもつ「受動性」をラディカルに引き受けることで、規定の〈遠近法=パースペクティヴ〉を撹拌し、その先に、事後的かつ仮設的に軽やかな主体性を再-編成する可能性であり、そしてそのための新しい写真制作の方法を見つけ出すことであった。『アサヒカメラ』で「決闘写真論」連載されていた76年は、多木浩二の『生きられた家』が出版された年でもある。すでに主戦場は、ゆるやかに、日常的な環境への批判的実践へと移りつつあった。

『プロヴォーク』以降の中平の制作の軌跡を簡単に紹介しておこう。中平は1968年創刊の『プロヴォーク』、そして70年に刊行した写真集『来たるべき言葉のために』において、グラフ・ジャーナリズムの予定調和的な物語づくりへの徹底した批判を展開し、風景と対峙した。中平はここで欧米や日本における大量消費社会、あるいは情報社会の到来に対して視覚の不確かさをラディカルなかたちで提示することに成功する。が、それがアクチュアルな状況への批判であればあるほど、そのときの「否定の身振り」はスタイルとして消費され、瞬時に陳腐化してしまうだろうことは、中平自身がもっともよくわかっていたことであった。

翌年のパリ青年ビエンナーレでは、とりわけ制作過程が重きにおかれることになる(《サーキュレーション 日付、場所、行為》)。中平はパリを縦横無尽に撮影し、大量のプリントを日々追加・変更を繰り返しながら展示した。それは写真家が自らを作品の演算子=オペレーターとして位置づけることで「書き直し」をくりかえす新陳代謝のプロセスであり、エンゲルスが『自然弁証法』で示した物質連関=物質代謝の様を――黒川らメタボリストよりもよほど正確に――描き出していた。生命活動において、敵に食われるということは敵の身体を自己の身体をもって作り直すことを意味する。つまりそこでは自己と他者、敵と味方の対立がはなんなく止揚してしまうのであるが、まさに中平は《サーキュレーション》において、モノとイメージの断片が循環・流通するさまをインスタレーション化すると同時に、自らの身体をそうしたフィードバック・プロセスのたんなる媒介物と化すことで、遠近法的世界観に固着した主体性を解体・廃棄するのである。それは68年の熱気が冷めやまぬパリという場にあって、強烈な批判的実践であった。

74年、東京国立近代美術館で開催された「15人の写真家」において中平がおこなった制作《氾濫》は、《サーキュレーション》から地続きの問題意識のなかにあり、73年の「なぜ、植物図鑑か」(以下、「植物図鑑」)で提起された問題と並行している(Fig.2)。冒頭で引用し、本稿が主題に置く中平の論考「アナーキスト」が発表されたのは74年であり、《氾濫》には『近代建築』誌上で発表された写真も含まれている。間違いなく《氾濫》および「植物図鑑」で結晶化している問題意識の本質こそ、筆者がここで取り出さなくてはならないものである。

Fig.2 《氾濫》(写真: 1995年 東京国立近代美術館)

2-2 植物図鑑

《氾濫》における問題意識について、フランツ・K・プリチャードは次のように指摘している。

《来たるべき言葉のために》に支配的だった様式から離れて、都市の物質的現実をカラー写真でとらえたこの連作を通して明らかに示されているのは(……)「植物的なもの」の諸形態に対する、境界画定的な分離と不気味な遭遇の二つの感覚である。安全な距離感覚を所有せず、風景に対して抗議の声をあげるための適切な言葉を欠いた「植物的なもの」。この呼称は、異質な次元を媒介する関係の諸形式を開こうとする、暫定的な方法を意味した。

フランツ・K・プリチャード「都市氾濫の図鑑──中平卓馬の写真的思考と実践」( 2018年)[8]

「植物」は中平にとって、「樹液=血液、葉脈=動脈という類縁、一瞬ぼくの心を安堵させるなにかしらの人間的なものがある」[9] 一方で、「防水性の外皮」による感情移入の拒絶をもたらすものであった。つまり植物は、人間でなく、かつ人間でなくもないような、両義的な存在を範例として示すものだったのである。「なぜ、植物図鑑か」での記述をみていこう。

世界と私は、一方的な私の視線によって繋がっているのではない。事物、物の視線によって私もまた存在しているのだ。(……)いかにも私は世界を見る、だが同時に世界は、事物は私に向ってまた物の視線を投げ返してくるのだ。そこには私の視線を拒絶する世界、事物の固い〈防水性の外皮〉がただあるばかりである。(……)写真を撮るということ、それは事物の思考、事物の視線を組織化することである。(……)おそらく写真による表現とはこのようにして事物の思考と私の思考との共同作業によって初めて構成されるものであるに違いないのだ。

中平卓馬「なぜ、植物図鑑か」(1973年)[10]

中平が示した方法は事物と私の共同作業、いわば非人間とのパースペクティヴの交換であった。事物を凝視すること、と、事物に視線を投げ返されること、の同時性。多木が指摘していたように、こうした「身体を世界に貸し与える」という態度は、『来たるべき言葉のために』の時点ですでに発現していたものである[11]。そこにはロマンティシズムへの欲望がわずかに残存していたが、「植物図鑑」の時点では情緒はもはやノイズでしかなく、徹底して排除すべきものになっていた。

たしかに一枚の写真をとりあげてみる限り、それは私という一点から一方向的に覗き見た空間を呈示しているだけにすぎない。だが一枚の写真の空間に限定するのではなく、時間と場所に媒介された無数の写真を考える時、一枚一枚の写真のもつパースペクティブは次第にその意味が薄められてゆくのではないか。つまり、そうすることによって時間に媒介され、無限に乗り越え、乗り越えられるもの、それはまさしく世界と私、それら二次元的対立をつつみ込んだ場としての世界の構造を明らかにしていくことが可能なのではないか、ということなのである。そこにはもはやスタティックな私と世界という図式は消え、無限に動き続ける無数の視点が構造化されてゆくのではないか。

同書[12]

《サーキュレーション》におけるおびただしい数の写真の列挙、あるいは《氾濫》における都市の「不気味なもの」の凝視といった姿勢は、こうしたパースペクティヴの複数性を目指す姿勢に基礎づけられている。「都市は氾濫する。事物(もの)は氾濫し、叛乱を開始する。大切なことは絶望的にそれを認めることなのだ。それが出発である」[13]。中平が政治的闘争の場として目指したのは、人間中心主義を脱した先にある「私の視線と事物の視線が織りなす磁気を帯びた場」であった。

植物、図鑑、そしてこの二つの語の繋がりは奇妙に私の関心をひく。(……)なによりも図鑑であること。魚類図鑑、鉱山植物図鑑、錦鯉図鑑といった子供の本でよく見るような図鑑であること。図鑑は直接的に当の対象を明快に指示することをその最大の機能とする。あらゆる陰影、またそこにしのび込む情緒を斥けてなりたつのが図鑑である。(……)あらゆるものの羅列、並置がまた図鑑の性格である。図鑑はけっしてあるものを特権化し、それを中心に組み立てられる全体ではない。(……)この並置の方法こそまた私の方法でなければならない。そしてまた図鑑は輝くばかりの事物の表層をなぞるだけである。その内側に入り込んだり、その裏側にある意味を探ろうとする下司な好奇心、あるいは私の思い上がりを図鑑は徹底的に拒絶して、事物が事物であることを明確化することだけで成立する。これはまた私の方法でなければならないだろう。

同書[14]


中心をもたない全体のなかで、事物が並列・併存すること。「図鑑」はあくまでの写真的な手法だが、それは「見ること」の近代的な統制に対する批評行為のための方法論でもあった。

植物図鑑。すなわち、人間でなく、かつ人間でなくもないような事物とのパースペクティヴの交差の場を並立・併存させること。不条理な現実のなかで、しかし、決して一元化されえない無数の事物たちによる葛藤・抗争の場がそれでもありうるのだということを、たとえフィクションだとしても、示すこと。中平にとって写真の可能性はこの一点にこそあったのではないか。写真というメディアのもつ特性を最大限酷使することで植物的な〈眼〉を観賞者に(あるいは自身に)刻み込むこと、すなわち制度化された日常性をものともしない非人間的な遠近法を携えた身体を編成しなおすこと、こそ、中平のアナーキズムなのである。

見るものを無数の事物のパースペクティヴが交錯する場に参加させるための具体的な技術、そして「これは図鑑である」ことを宣言するための文法の構築に向けて、中平は進みはじめる。1990年代以降の中平の制作が、まさにこの技術の習得と実践に差し向けられていたということを次章で検証していこう。


3 〈眼〉の狩人

3-1 パースペクティヴィズム

1977年9月、中平は急性アルコール中毒により昏睡し、意識不明の重体となる。その後奇跡的に生還した中平は、記憶の欠如と失語症に苦しみながらも精力的な写真制作を再開し、カラーポジ、縦構図で対象を鮮明に撮るという後期の形式は1990代初頭までに確立される。90年以降の中平の写真はしばしば、作品そのものというよりは「撮影する」という行為の重要性に比重が置かれる。中平という存在自体が神話化してしまい、作品そのものの形式的な価値は宙吊りにされてしまったのだ。

たしかに、極度に断片化した日々の「これ」を切断的に写し取る後期中平の写真を、「中平卓馬」というモチーフなしに解釈することは大変な困難をともなうだろう。他方で倉石信乃は、後期中平の写真を理解するさいに、「狩猟=撮影」といういささか古典的なモチーフが、従来の意味とはまったく異なる新たな価値をもつことを指摘する。

寝ている人などを撮影する際、シャッターがリリースされた瞬間、中平はすばやく対象から離れることがある。漸次的な接近と素早い離反を伴うひとつづきの「シューティング」と出来上がった写真とは無縁であるはずがない。中平はここで明らかな「恐れ」を抱いている。恐れの理由は、物理的な攻撃を受ける可能性を察知してのこと、と言うだけでは足りない。その理由をより物語るモティーフは、人間よりもむしろ「動物」の方だと言えるかもしれない。動物からのまなざし、見つめ返されることに恐れているのだ。いやむしろ、中平はいつも見られている。少なくとも、たとえば字義通りに眼を写真家の方に向けていなくとも「事物のまなざし」が存在すること、その眼差しの射程範囲を逃れることはできないこと、それを前提に撮影しているからこそ、怖いのだ。(……)われわれは中平の撮影時における注視の眼差しが、結果的に「狩る」動物と人間とを等価値的に参照したものとなることを改めて想起しなければならない。

倉石信乃「人と動物 後期中平卓馬の写真」(2017年)[15]

狩猟としての撮影は、中平の実践においては、例えばダナ・ハラウェイが指摘する「写真意識の持つ極めて略奪的な性格」[16] を想起するものにはならないだろう。倉石が述べているように、中平の恐れは「見ること」が「見られること」に常に開かれているという双方向性を提示していると同時に、撮影のさなか、彼があらゆる事物のまなざしを了解していることを示している。中平の撮影行為をわれわれは、アナロジーとしてではなく、文字通り生死を賭けた「狩猟」として理解せねばならない。それは常に危険がともなうような命がけの眼(=視点)の収奪であり、動物だけではなく植物や鉱物も含めた種々雑多なオブジェクトのまなざしを掠め取り、フィルムに定着させようとする行為なのである。石を撮影するという行為は石のまなざしを収奪するということであり、それは石のパースペクティヴから世界をまなざすということ、つまり、自らをはんぶん石にしてしまう行為なのであって、撮影においては鉱物・植物・動物・人間といった領域の画定が撹拌され、一時的にそれらの「中間性」を生きることが要請される。中平の写真がもつラディカルさ、その方法論としての可能性は、この中間性への踏み込み(一時的に、仮設的に、抽象的な思考を捨てて「狂気」の方へ踏み出す態度)に凝縮している。

近代的な価値観からいえばどう考えても非常識であるこうした感覚は、実際の狩猟行為においては「常識的」とさえいえるものである。人類学者エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロがアマゾニア諸民族の民族誌を導きの手としながら提示した「パースペクティヴィズム」(パースペクティヴ主義)を、ここでの補助線としよう。

動物や精霊は、われわれを非-人間的な存在として見るので、自らを人間としてみる。これらの存在は、(……)自らの習慣や特徴を、ある種の文化のもとに経験する。すなわち、食糧を人間の食べ物として(例えば、ジャガーは血をマニオク酒として、死者はコオロギを魚肉として、クロハゲタカは腐敗した肉に湧く蛆を焼いた魚肉として)見るし、自らの身体的な特性(毛皮や羽毛、鉤爪、嘴)を文化的な装飾品として見る。ここでの「として見る」という表現は知覚対象について文字通りに言及しているのであり、アナロジーによって概念に言及しているわけではない。

ヴィヴェイロス・デ・カストロ「アメリカ先住民のパースペクティヴィズムと多自然主義」(2016年)[17]


アメリカ大陸先住民のパースペクティヴィズムにおいて、世界に住む多様な存在は、主体として行動するとき、自らを人間としてみなす。このときパースペクティヴ(事物の布置)の差異は"身体"の特殊性において与えられる。ヴィヴェイロスが「身体」という言葉で表現するものは、習慣=ハビトゥスを構成する情態や存在の様態の集合体である。パースペクティヴの源となるのは情態と力能の束としての身体であり、決して精神ではない。そして身体がパースペクティヴをもたらすのならば、それは制作の余地を残している。同じく人類学者のレーン・ウィラースレフはヴィヴェイロスの理論に言及しつつ、先住民の狩猟様態に関して具体的な分析をおこなっている。

私の論点は、「まなざすこと」と「まなざされること」、もしくは「客体化すること」と「客体化されること」の二重性を経験する結果として、狩猟者は動物を自らのパースペクティヴと似ているが、完全には同じではないパースペクティヴを持つ人格として経験するだろうというものである。つまり、動物は、「私の=ようで=あるが=私でないもの」という逆説の中に住まうようになる。

ウィラースレフ『ソウル・ハンターズ — シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学』(2018年)[18]


狩猟時にハンターは、対象の身体的なふるまいや感覚、共感的な感性をつぶさに観察し模倣することによって、彼/彼女らのパースペクティヴの質を想定する。狩猟者は自らの身体を組み替えることでジャガーになりきり──すなわちジャガーの〈眼〉を奪い──、ジャガーが何をみて、何を感じ、どう行動し、何を恐れ、何を求めるのかを知るのである。自らの想像力のなかに対象のパースペクティヴを再生産するこうした行為は、生死を賭けた駆け引きを少しでも有利にするためにおこなわれるのだが、このとき獲得される経験は架空のものではなく、私の生きられた身体への経験を通じて「実在の感覚」をもたらすのである。

「植物図鑑」で中平は、写真によって「私の視線と事物の視線が織りなす磁気を帯びた場」を制作することを目指していた。このことをあらためて思い出そう。人間でなく、かつ人間でなくもないような「植物的なもの」、を相手取った「事物と私の共同作業」、パースペクティヴの交換。中平は「世界、事物の擬人化、世界への人間の投影を徹底して排除」するために、自らを部分的に非人間とする写真制作の方法を模索していた。こうした制作を動機付けていたのは、中平自身のトラウマ的な知覚体験であった。

しかしいったい見るということは何なのだろうか。むろん見るということは、世界を見られるべきもの=対象に還元し、私と対象との間に安定した距離を確立すること、そのことによって世界を意味化し、所有することであることはわかっている。だがもしこの距離が崩壊したら? 私事になるが、数年前、私は不眠症のために睡眠薬を常用するようになり、その結果、恒常的な知覚異常を惹き起こし、ひと月近く入院したことがあった。その時の幻覚をひと口で言いあらわすことはむずかしい。幻覚といってもありもしない幻を見るのではない。つまりそれはこの距離感の崩壊であり、事物と私との間に保たれていたはずのバランスの喪失であった。(……)国電(JR)に乗っていて車窓から景色を眺めていると、ある一瞬からそれらの事物が眼球に突きささっていくる。疾走する車中の自分を守るためには眼を閉じたまま座席の肘掛けにしがみついていなければならない。そのような知覚の異常がこうじて、事物を見ることは物が直接眼球に突きささってくることであり、意識とは事物が眼球、あるいは網膜を傷つける、その傷痕であると堅く信じるまでになり、街を歩くこともできなくなっての入院であった。その不安はまったく消えてしまったわけではなく、病者の意識はいまなお私の意識にひきつがれている。まさしく「見る」とは、事物が私に向かって突きささってくる、その反転した言い回しではないだろうか。

中平卓馬「都市への視線あるいは都市からの視線」(1976年)[19]

このような知覚の異常な様態は、ベルクソンにいわせれば「常識的」ということになろう [20]。ベルクソンによれば、知覚は「ここ」ではなく実際に「事物の側」にある。そして、対象の位置と知覚の位置が一致し対象と「ここ」の距離がゼロであるような局面を、実際に中平は経験していた。中平は、「見ている」ことと「見られている」ことが混濁し、「ここ」と「そこ」の距離がゼロとなるこの局面においてこそ、事物との関係性における最も強烈な、擦れるようなリアリティを感じたのではないだろうか(こうした感覚は中平が写真撮影に抱いていた「恐れ」につながっていくものだ)。中平の「狩猟=撮影」と先住民の狩猟様態はここで重なる。「植物図鑑」を愚直に実践した先にあるのは、《パースペクティヴィズム》としての写真の可能性である。

3-2 《Documentary》における構成形式

後期中平の制作物をみれば、いかに中平が「眼=パースペクティヴの交換」に自覚的であったかがわかる。横浜美術館で2003年に開催された「原点復帰─横浜」展以降、2009年までに撮影された作品で構成されている《Documentary》[21] をみてみよう。特徴的なのは二枚一組で構成される見開きの構成に、ある一定の傾向性が見いだせることである。清水が指摘しているように、中平が組み合わせのさいにこだわっているのは「視線のあるもの」と「視線のないもの」をペアとすることだった[22]。対象(往々にしてそれは動物であり、〈眼〉をもつ)を明確に写し取った写真が片方にあり、もう片方にはただ質感としかいえないような写真(その多くは植物や鉱物である)が並べられ、観賞者はこの両方を見比べることになる。

Fig.3 《Documentary》より一部抜粋

「視線のないもの」は、見るものに強い没入を強いる。まるで意識がそこに吸い込まれていくように。質感を見ることの根本的な快楽が、われわれの身体から〈眼〉を引き剥がし、非人間と癒着させる。しかし隣り合う「視線のあるもの」によって、その没入はただちにキャンセルされるだろう。この没入の否定によって、私は私自身の眼を認識する。

一般に写真に没入するということは、端的にカメラと眼を等号で結ぶようなフィクショナルな知覚のモードであり(眼=カメラという体制はいわば比喩である)、もういっぽうにあるのは、眼の前にある印画紙を認識するという知覚のモードである。中平の作品においては、「対象を見ている私」(眼=カメラというフィクション)と、「印画紙を見る私」(「私の眼」のたんなる現前)がすばやく往来を繰り返すことで両者の重ね合わせが起きる。「私の身体」が媒介物=メディウムとして作品を構成する素材の一部に組み込まれることで、私の主体性は分割され、二重化する。観賞する身体が作品の構成材の一部、もしくは癒着点となること。後期中平の作品は身体のメディウム化・能動化を促し、眼の奪い合いのゲームの只中に観賞者を誘いだすのだ。崖壁の豊かな陰影に没入した私のパースペクティヴがとなりの鯉へと移行するとき、私は鯉の目線で私たち自身を見返すかもしれない。

かつて「植物図鑑」で予告されていた「私の視線と事物の視線が織りなす磁気を帯びた場」における「植物的なもの」(人間でなく、かつ人間でなくもない事物)との「共同作業」というコンセプトは、きわめて正確に、そして理論的=形式的な操作によって、後期の中平の制作物に実装されている。中平の写真を前にした観賞者は、人間や植物といった領域が撹拌された「中間性」を生きることを引き受けることになる。人間としてのまなざしはそこで柔らかくほぐされることになるだろう。私たちは部分的にヤギになりながら、アヒルになりながら、ヤシの葉になりながら、石になりながら、写真を凝視する。これは中平が理論的にその可能性を示唆した「植物図鑑」にほかならない。



4 〈第4の次元〉

4-1 パースペクティヴィズムの条件

後期中平の写真がもつ特質を、より形式的に分析し、道具として取り出すことを試みてみよう。哲学者のエリー・デューリングはヴィヴェイロスのパースペクティヴィズムを巡る論考のなかで、複数のパースペクティヴの相互性を確保するための時間的枠組みとして〈スーパー・タイム〉という概念を導出している。デューリングは人類学以外のさまざまな事例との連関を示すなかで、アピチャッポン・ウィーラセタクンの『トロピカル・マラディ』(2004)に言及し、以下のように述べる。

私たちが目撃しているものは、人間の特性が、虎のパースペクティヴに入り込み、最終的には虎のパースペクティヴに捉えられてしまう働きなのである。この働きが成就するのに続いて、ボイス・オーバーが挿入される。「今や、それは私が見る私自身である…」と。(……)ナレーションの中にちりばめられた、何も映っていない黒いスクリーンによって遮られることで、持続は一挙に引き延ばされ、広げられ、しばしば断絶される。(……)それから、まるでトーチランプのスイッチが入ったかのように、その虎はいっぱいの光のもとで現れる。その視覚的な効果はある種の図と地の反転に等しい。さらに、虎は正対してカメラをまっすぐに見つめる。誰もが知っているように、カメラ目線は古典映画の文法からは一般的に排除されている。というのも、そいうすることによって、映画経験の根底をなす技術的な条件があばかれてその計略が明らかになってしまうからであり、より根本的には、映画的な時空の連続性が損なわれてしまうからである。(……)それは文字通りに、パースペクティヴの空間における盲点に視覚的な現前を付与する。 

エリー・デューリング「スーパー・タイム――ヴィヴェイロス・デ・カストロの時間的パースペクティヴ主義の哲学的読解――」(2017年)[23]

アピチャッポンの映像に対するデューリングの指摘は、狩人・中平の方法論および制作物の観賞体験にもある程度あてはまりそうだ。両者の作品には、あきらかに従来の言説では取りこぼしてしまうような、ある共通した経験の本性がある。それは複数のパースペクティヴが空間や時間を横断して分配されたり、相互に折り重ねられたりする知覚経験にほかならない。デューリングはこのような体験を示唆するためにネッカー・キューブの等角投影図の表象を示し、「図と地の反転は、それがもつ示唆的な力によって、アニミズム文化の中心をなすパースペクティヴの交換可能性を表す理念的なエンブレムあるいは視覚的なダイアグラム 」[24] であると述べるが、ヴィヴェイロス自身によれば、この特異な状況を説明するために必要なのは「非ユークリッド幾何学」である[25]。アナロジーではなく、文字通りの意味で「非ユークリッド幾何学」が、複数のパースペクティヴの相互性を可能にする空間的条件になるということだ


4-2 虚構にペンをたてる

一般に「非ユークリッド幾何学」は私たちが住む現実の世界においては「みえない」ものとされているはずだ。なるほど、中平やアピチャッポンの作品がもっている特異な性質を触知可能なかたちで示すことは、やはり不可能なのだろうか? いや、少なくとも〈第4の次元〉ならば、その限りではない。たとえば数学者の根上生也は著書『四次元が見えるようになる本』のなかで、“四次元を見るための奥義”を紹介している(Fig.4)。


あなたが用意するものは、紙と鉛筆だけ。まず、用意した紙を机の上に広げ、そこに三本の座標軸が直交している絵を描いてください。何の解釈も加えなければ、その絵には一点で交差する三本の長い矢印が描かれているだけです。しかし、あなたはその絵を見て、そこに三次元空間を見出すことができる。本当は紙の世界は二次元空間でしかないのに、それは三次元空間だと思える。当たり前のことだけれど、そういう力があなたに備わっているということを自覚することが大切です。 次にあなたがすべきことは、三本の座標軸の交点、つまり、三次元空間の原点に当たるところに鉛筆を立てることです。 「え、それだけ?」 そう、それだけです。でも、紙に書かれた三次元空間を意識できるあなたなら、原点の位置に立てた鉛筆が何に相当しているかがわかるでしょう。それはx軸、y軸、z軸のすべてに直行する第四の座標軸、w軸にほかなりません。  鉛筆は紙の上に描かれた三次元空間からはみ出る方向に伸びている。ということは、その鉛筆が指し示す方向に四次元空間が広がっているということです。つまり、いままで三次元空間だと思っていた世界が四次元空間に化けたことになります。そして、あなたはその四次元空間の中にいて、紙の上に存在している三次元空間を見下ろしているのですよ。

根上生也『四次元が見えるようになる本』(2012年)[25]

Fig.4 虚構にペンをたてる

実際に体験してみるとすぐさま理解できるが、たったこれだけのことで、驚愕するような独特の空間体験──あたかも四次元にさわっているような──がもたらされる。なにが〈第4の次元〉の触知を可能にしているのだろうか。その条件は、直行に交わるx-y-z軸を三次元として認識できていること、そしてそのイリュージョナルな空間把握を崩さぬまま、鉛筆をたてている実空間でのw軸を明確に認識できていることである。換言すれば、二次元に折りたたまれた(射影された)フィクショナルな空間と現実空間が、あたかもネッカー・キューブのようなかたちで、ある絶妙なバランス、力関係のもとに置かれていること、だ。際限のないシュールな現実の追求にむかうのではなく、「虚構=フィクション」と「現実=リアル」を同時に知覚する体勢がここでは問題となっている。ただし、Fig.4の写真をみるだけではこの特異な感覚を得ることはできないことには注意しよう。人間が知覚できる次元の数はあくまでも三次元までに制限されている。ゆえに自らの身体を用いた実空間での実践でなければ、4次元的な体験(折り畳まれた3次元+1次元)が実現することはない。虚構と現実の同時性、そして観賞者の身体が構成材(媒介物)となること、パースペクティヴィズムを可能にする〈第4の次元〉の条件はこの2点に要約される。

一元的な遠近法的世界を切り崩した「事物とのパースペクティヴの交換」を目指した後期中平の作品は、「没入を誘発するもの=視線を受け止める事物」と「観賞者の身体を刺激するもの=視線をこちらに送り返す事物」のさまざまな組み合わせにより成立していた。「植物図鑑」が実現したのは、観賞者を〈眼〉の往還のシステムのなかに組み込むことで可能になる「現実(リアル)と虚構(フィクション)の同時性」(類推に頼らない4次元空間の表現)である。

5 建築におけるアナーキズム

人間でなく、かつ人間でなくもないような事物(=植物的なもの)とのパースペクティヴの交差の場を並立・併存させること。中平は写真を撮るということ、そして写真を見るということを通して、近代的=遠近法的な身体・思考をときほぐそうとしていた。新たな仕方での「狩猟=撮影」をひとり開拓する冒険を通して。あるいは、「没入と非没入の同時性」という4次元的知覚を導出する実験的試みを通して。それは近代の産業構造によって制度化される日常性を解体し、イデオロギーによる感性の統御に抗するための、いわば身体の再編成のプロセスだった。

デューリングはパースペクティヴィズムの条件たる〈スーパー・タイム〉あるいは〈第4の次元〉を建築空間に実装するためのヒントとして、コーリン・ロウの「透明性 実と虚」 を示している[27]。建築というよりもむしろキュビズム絵画におけるコラージュの様相を分別するために用いられることの多い本概念であるが、ここではあくまで建築空間の経験に即して言及していきたい。ロウはまず「透明性」の定義を、ハンガリーの芸術家ジョージ・ケペッシュの記述から導出する。

二つまたはそれ以上の像が重なり合い、その各々が共通部分をゆずらないとする。そうすると見る人は空間の奥行の食違いに遭遇することになる。この矛盾を解消するために見る人はもう一つの視覚上の特性の存在を想定しなければならない。像には透明性が贈与されるのである。すなわち像は互いに視覚上の矛盾をきたすことなく相互に貫入することができるのである。しかし、透明性は単なる視覚上の特性以上のもの、更に広範な空間秩序を意味しているのだ。透明性とは空間的に異次元に存在するものが同時に知覚できるということをいうのである。

コーリン・ロウ「透明性 実と虚」より再引用 [28]

なるほど、ガラスやルーバーといった透過性のある素材が多重に折り重なるとき、我々は「透明性」という性質を事後的に適応することで、それらの奥行きの食違いの矛盾を止揚している(リテラルな透明性)。問題はロウが「視覚的でない」透明性として指摘する〈現象する透明性〉である。

端的にいえば、〈現象する透明性〉は離散的な知覚経験が意識の中で統合されることで生じる構造的な透明性、である。どういうことだろうか。例えばある建築を経験するさいに、A-B-C-D-Eという経路があるとしよう。その建築を何度も経験していれば、Cを過ぎた先のDにいるとき、このまま歩いていていけばEに到達するだろうという予想は当然可能だし、それができなければ日常生活に支障をきたすことだろう。この予想を可能としているのは、仮想的な建築の一望性を私たちが想像できているからにほかならない。現にいま知覚しているDという空間と同時に、いまは知覚することができないA、B、C、Eという空間を頭のなかで立ち上げ、そこに構造を与える(知覚している空間と記憶のなかの空間を串刺しにする)ことを私たちは無意識のうちにおこなっている。建築はその構造上、つねに部分的にしか空間を経験できない。部分的な経験は分岐・分裂し、記憶として蓄積され、雑多に重なり合う。が、人間はそれを制御してひとつの像をつくりだす能力がある。つまり、建築空間の局所性をそのつど “演算”し、仮止めの解=「仮設的な全体性」をそのときどきで導出しているのである。

〈現象する透明性〉を用いて建築家が実践できるのは、日常への「反省性」を喚起する構造を建築に組み込むことである。パースペクティヴィズムの土台となる〈第4の次元〉を発動するための条件が、「虚構=フィクション」と「現実=リアル」を“同時に知覚すること”であったことを思い出そう。〈現象する透明性〉に即してこのコンセプトをパラ・フレーズするならば、固定化した建築の全体性と、いままさに体験している「ここ」(局所的な現実の空間把握)を、同時に(同じ強度で)経験すること、といえる(記憶の知覚の同時性)。日々の生活で想像的に仮設され、時が経過すれば容易に固定化してしまう建築(あるいは都市)のフィクショナルな全体像に対する裏切り・発見・驚き・汲み尽くせなさを「いま=ここ」に宿すこと。それはいわば建築的経験における“演算の失敗”を企図することであり、「フィクション/リアル」のスラッシュの位置に身体が位置づけることだ。

子供の頃、私たちが住んでいた家にはどこか一角、必ずじめじめとして暗い場所があったものである。そんなところにはなんとなく行くのがいやであって、たまたま客などが来てそこに寝なければならならくなったりした時は眠ることができず、寝落ちても悪い夢ばかり見たものであった。しかし、そうした部分も含めて家を媒介にした私たちの精神の構成はなされてきたのではなかっただろうか。その一角がこの巨大なビルにはどこにもありはしない。たしかに近代の建築はそのような暗い部分を徹底して排除してきたことであろうことは、近代的理性のロジックから言っても当然すぎることであろう。だがこれらのビル群はあまりにも徹底している。その堅牢な美しさにおいて、これらの建築はほとんど完璧である。

中平卓馬「アナーキストは建築家になり得るか?」(1974年)[29]

中平がここで指摘している建築の「暗い部分」は、日常への反省性を喚起する構造を建築にもたらすひとつの鍵である。壁の厚みや床下、天井裏、階段の裏側といった建築における「体験できない場所」は、近代主義=モダニズムが徹底的に排除しようとしてきた領域だった。しかし、厚みをもたない建築物など存在しない。だからこそ、たとえば天井裏は、外観と内観の「ずれ」として日々無意識のうちに感知されている。「暗い部分」の輪郭は、局所的な空間体験のずれによって感知される(〈現象する透明性=虚の透明性〉が壊れるときに現れる)。同時に、その領域は元来、種々雑多な非人間が住まう場であったことを忘れてはいけない。中平は、人々が無意識のうちに感知している「実在を保証されつつもそれが何か断定できない」場所が建築に潜在していることに、直感的に気づいていたように思う。

アナーキスト的建築家は、没入と非没入の往還をもたらす建築空間を用意することで、人間と動物、あるいは事物の垣根を超えた中間性をつくりだす。おそらく、中平が直感していた建築家像はこのようなものだ。不気味で、暗く、人間が行けない場所こそ、建築家が厳密な設計の対象とすべきものだ。生きられた空間とそこに住まう慣れきってしまった身体(環境に没入した身体)に違和感と想像力を与え、人間と非人間のパースペクティヴが交差する場をつくりだすために、建築家は「暗い場所」をその手に取り戻さないといけない。「植物図鑑」としての建築は、まずはそこからはじまる。

1 中平卓馬「アナーキストは建築家になり得るか?」, 『近代建築』, pp.37-38, 1974.6

2 岡崎乾二郎『抽象の力』, 亜紀書房, p.274, 2018

3 中平卓馬「記録という幻影」, 『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』, 筑摩書房, p.73, 2007(初版: 晶文社, 1973.2)

4 中平卓馬「アナーキストは建築家になり得るか?」, p.38

5 中平卓馬「記録という幻影」, pp.66-67.

6 カストリアディス「自律からの後退: 一般化された順応主義の時代」, 『細分化された世界』, 右京頼三訳, 法政大学出版局, 1995

7 中平卓馬「まち──見ることの遠近法」, 『決闘写真論』, 朝日新聞社, pp.77-80, 1995(初版: 朝日新聞社, 1977)

8 フランツ・K・プリチャード「都市氾濫の図鑑──中平卓馬の写真的思考と実践」, 倉石信乃訳, 『氾濫』, Case Publishing, 2018

9 中平卓馬「植物図鑑」, 『朝日ジャーナル 1978年8月20・27日合併号』

10 中平卓馬「なぜ、植物図鑑か」, 『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』, 筑摩書房, p.p.19-20, 2007(初版: 晶文社, 1973.2)

11 多木浩二「来るべき言葉のために──中平卓馬の写真集」, 『写真論集成』, 岩波書店, 2003

12 中平卓馬「なぜ、植物図鑑か」, p.28

13 Ibid., p.31

14 Ibid., pp.34-35

15 倉石信乃「人と動物 後期中平卓馬の写真」, 『沖縄』, Rat Hole Gallery, 2017

16 ダナ・ハラウェイ『猿と女とサイボーグ:自然の再発明』, 高橋さきの訳, 青土社, p.323, 2000

17 エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ「アメリカ先住民のパースペクティヴィズムと多自然主義」, 『現代思想 2016 3月臨時増刊号』, 近藤宏訳, 青土社, p.42-43., 2016

18 レーン・ウィラースレフ『ソウル・ハンターズ — シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学』, 奥野克巳・近藤祉秋・古川不可知 訳, 亜紀書房, pp.168-169, 2018

19 中平卓馬「都市への視線あるいは都市からの視線」, 『決闘写真論』, pp.12-13.

20 《私たちの知覚は、すでにそう語っておいたとおり、本源的には、精神のなかに存在するというよりは、むしろ事物のうちにあるのであり、じぶんの外部に存在するのであって、私たちの内部にあるのではない。さまざまな種類の知覚は、それぞれにリアリテの真の方向をしるしづけている。》 アンリ・ベルクソン『物質と記憶』, 熊野純彦訳, 岩波書店, p.430, 2015

21 中平卓馬『Documentary』, Akio Nagasawa Publishing, 2011

22 清水穣「連載 逸脱写真論3 日々是写真――中平卓馬の写真2」, 『写真空間3』, 青土社, p.172, 2009

23 エリー・デューリング「スーパー・タイム──ヴィヴェイロス・デ・カストロの時間的パースペクティヴ主義の哲学的読解──」, 『思想 2017年12月号』, p.117

24 Ibid., pp.118-119.

25 ヴィヴェイロス『From the Enemy’s Point of View: Humanity and Divinity in an Amazonian Society』, The University of Chicago Press, p.4, 1992

26 根上生也『四次元が見えるようになる本』, 日本評論社, pp.163-165., 2012

27 デューリング「スーパー・タイム──ヴィヴェイロス・デ・カストロの時間的パースペクティヴ主義の哲学的読解──」, p.128

28 コーリン・ロウ「透明性 実と虚」, 『マニエリスムと近代建築』, 伊東豊雄・松永安光訳, 彰国社, pp.206-207, 1981

29 中平卓馬「アナーキストは建築家になり得るか?」, p.38

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